古く、児島は陸続きではなく瀬戸内海に浮かぶ正真正銘の島だった。それが江戸時代初めに岡山と陸続きになって、さらに干拓事業も進められてゆく。
ところが、干拓で生まれた土地は塩気が強くておよそ稲作などには不向きであった。
そこで、土地をそのまま塩田にする一方で、塩にも強い栽培作物として綿花が盛んに栽培されるようになる。
そうして塩田では野崎家が財を成し、また綿花栽培ではそれに紐付く繊維産業が盛んになった。これが、児島の町の成り立ちである。
江戸時代には足袋や帯地、真田紐などを製造していた児島だったが、明治に入ると紡績工場が進出して工業化。その後は日本有数の機業地に成長し、学生服の製造で日本一のシェアを誇っていた時代もあるという。
しかし、戦後になると学生服の素材が綿から合成繊維に変わり、児島の繊維業も厳しい局面に立たされる。そこで目をつけたのが、デニムだった。
1960年代半ば、児島は日本で初めて国産ジーンズを製造する。はじめはアメリカから輸入したデニム生地を縫製したものだったが、のちに生地の製造から手がけるようになり、すっかりジーンズの聖地へと成長していった。児島は、ジーンズ日本一の町なのである。
1988年、瀬戸大橋の開通。1990年、下津井電鉄廃止。そして…
一方で、児島は瀬戸内海の真ん中という地理的条件もあって、古くから交通の要衝でもあった。
児島半島の南西、下津井港は江戸時代には西廻り航路の寄港地で、また本州と四国を結ぶ航路の拠点になっている。下津井電鉄は、そうした要の港とかつての国鉄宇野線・茶屋町駅を結ぶ鉄道として開業したのだ。
瀬戸大橋が開通する頃になると、いささか事情は変化する。かつての塩田跡に設けられた瀬戸大橋線児島駅が新たな地域の玄関口となり、駅周辺の開発が進む。
それと共に、旧中心市街地は衰退傾向になってしまった。役割を失った下津井電鉄も、1990年末をもって廃止になった。