乗員乗客107人の死者を出した、JR史上最悪の惨事・福知山線脱線事故から20年。脱線・転覆の10秒間に、いったい何が起きていたのか。生死を分けたものは何だったのか。重傷を負った生存者にふりかかった様々な苦悩と、再生への歩みとは――。
ここでは、遺族、重傷を負った被害者たち、医療従事者、企業の対応など、多角的な取材を重ねてきたノンフィクション作家・柳田邦男氏の著書『それでも人生にYesと言うために JR福知山線事故の真因と被害者の20年』(文藝春秋)より一部を抜粋。事故のショックで心的外傷を受け、自死に追い込まれた男性について紹介する。(全3回の3回目/1回目から読む)
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自死に追い込まれた人たち
脱線現場脇に建てられた慰霊碑には、犠牲となった乗客106人のうち、遺族の同意を得られなかった数人以外の氏名が刻まれているが、それ以外にも犠牲者なのに、JR西日本の方針で名を刻まれていない乗客が2人いる。生き残った者の、事故のショックで心的外傷を受け、そのトラウマを引き摺るなかで自死に追い込まれた人たちだ。
その中の1人の若者、岸本遼太について記す、
遼太は、宝塚市に母と2人きりで暮らしていた大学生だった。大学では環境社会学を専攻し、4年生になっていた。
事故の時、4両目に乗っていて、首をねんざする怪我を負った。4両目は、3両目までと違って死者こそ出なかったが、それでも負傷者は102人に上っていた。軽傷とはいえ、死傷者が全体で600人を超える大惨事となると、精神的なショックは大きい。
遼太は2カ月後の6月25日、パニック障害に陥り、PTSD(心的外傷後ストレス障害)と診断された。その後、大学をなんとか卒業できたが、自宅で苦悩する日々を過ごし、ブログや日記帳に、「すぐ隣で大勢の人たちが亡くなった。なぜ自分は生き残ったのか」と、罪責感に苦しむ心理状態を綴っていた。
退けられた「慰霊碑に名を刻んでほしい」という要望
事故でも災害でも、家族や友人などが命を奪われると、残された者のなかには、「なんで自分が生き残ったのか」と罪責感にとらわれて苦しむ人が少なくない。そのぶん加害者や原因企業などに対する怒りの感情が強くなる。
遼太は「JRを末代までたたってやる」との激しい感情も記していた。
うつ病に陥り、カウンセリングに通ってはいたが、翌年夏、もう1つのショックが重なった。大好きだった父親が天橋立近くの海岸で魚釣りをしているうちに、波に襲われて亡くなったのだ。65歳だった。遼太の喪失感は大きく、事故から3年半近く経った2008年9月、自宅で母の留守中に自死した。
後に事故現場近くに犠牲者の慰霊碑が建てられ、犠牲者の氏名が刻まれたが、遼太の名は刻まれなかった。事故による死亡ではないというのが、JR西日本の説明だった。
母の岸本早苗は、遼太は事故による負傷が原因で心を病んだのだから、事故による直接死と同様に、慰霊碑に名を刻んでほしいと要望したが、JR西日本は、自死者の名を刻むことに遺族のなかに反対する声があるからできないの一点張りだった。心の病いや自死者に対する偏見の強いこの国の精神的風土をむき出しにした対応だった。