乗員乗客107人の死者を出した、JR史上最悪の惨事・福知山線脱線事故から20年。脱線・転覆の10秒間に、いったい何が起きていたのか。生死を分けたものは何だったのか。重傷を負った生存者にふりかかった様々な苦悩と、再生への歩みとは――。
ここでは、遺族、重傷を負った被害者たち、医療従事者、企業の対応など、多角的な取材を重ねてきたノンフィクション作家・柳田邦男氏の著書『それでも人生にYesと言うために JR福知山線事故の真因と被害者の20年』(文藝春秋)より一部を抜粋。JR西日本と遺族が行った「福知山線列車脱線事故の課題検討会」の内容を紹介する。(全3回の1回目/2回目に続く)
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西川副社長からついこぼれた言葉「疲れますなぁ」
第6回の課題検討会は、5月24日にいつも通り弥生会館で開かれた。
長いテーブルをはさんで、会社側と4・25ネットワーク側が向き合って席に着くと、西川副社長が、正面の淺野の顔を見て、ぼそっと言った。
「疲れますなぁ」
確かに会社側の代表者ともなれば、遺族側からぎりぎりと錐を刺し込まれるように質問や疑念をあびせられ、それに対して精一杯の回答を示さなければならないのだから、精神的なストレスは決して小さくはない。
事故後の垣内社長の時代のように、組織防衛のために「説明拒否」の姿勢を貫くだけだったら、それはそれで職務に忠実なのだから、内面的に苦悩するまでもないと言えよう。
しかし、西川は、JR西日本を開かれた真っ当な会社にしなければならないという思いと、遺族に対して可能な限り誠実に説明責任を果たそうとしつつも、論理的に正当と考えるところはきちんと筋を通さなければならないという経営幹部としての責任感とがからみ合う中で、毎月の課題検討会に臨んできたのだから、つい「疲れますなぁ」という言葉も出てきただろう。
事故直後であったなら、加害企業の幹部がそんな言葉を吐いたら、遺族たちは直ちに怒りをぶつけただろうが、課題検討会での率直な議論が6回目ともなると、互いに相手の人柄もわかってきたからか、淺野も木下も、西川がさらに、「疲れんためにも、急いでいきましょう」と言葉を継いでも、角を立てることなく「始めましょう」と答えた。
通いなれた通勤電車で抱いた違和感
この日から、議題は列車ダイヤの問題に移された。4・25の遺族側は、運転士を追い込んだ背景には、列車ダイヤの高速化、過密化の進行という問題があったとかねて指摘していた問題だ。この問題に特に強くこだわっていたのは、木下だった。
木下は、大阪に本社のある会社の中堅幹部になっていたが、事故の数年前に、東京支社勤務を命じられ、しばらく関西から離れていた。しかし、事故の前年2004年に再び本社に戻り、自宅のある市から福知山線で大阪に通っていた。
通いなれた通勤電車だったが、すぐに電車の様子に違和感を抱くようになった。物凄いと言いたくなるほど、電車のスピードが速くなっていたのだ。立っていると、吊り革かポールにつかまっていないと立っていられないほどの加速感と揺れがある。
そればかりか、停車駅での停車時間がやたらに短い。乗降客が多くない駅では、ドアが5秒程度で閉まってしまう。数年ぶりの福知山線だが、利用者がかなり多くなった印象があるのに、各駅とも停車時間が以前より短くなった感じがあり、いかにもあわただしい。乗客はドアがすぐに閉まってしまうのを知っていてか、なだれ込むように乗り込み、駆け込みで無理に乗ろうとする客も目立つ。