戦後を代表する文芸評論家、江藤淳と加藤典洋。その胸を借りて戦後史を辿り直した與那覇氏と、フェミニズムの立場から二人の可能性と限界を鋭く指摘する上野氏。白熱の対談から一部を紹介する。(後編)

 

女は「一般的な他者」ではない

上野 私は、『近代家族の成立と終焉』で、江藤淳論を、近代家族論として論じました。まず恥ずかしい父がいます。敗北した父です。夫に対して欲求不満の妻、母がいます。そして母の期待に応えられないふがいない息子と、母のようになるしかない無力で不機嫌な娘がいる。この四人の組み合わせが近代家族だと言ったら、説得力があったのか、それを読んだ人たちから「うちはこの通りです」とずいぶん言われました(笑)。

夏目漱石の墓の前に立つ江藤淳

與那覇 聞いていてつらいのですが、なかなか反論できない(苦笑)。

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上野 息子のマザコンとは、恥ずかしい父しか選べなかった不満だらけの母親の期待についに応えることができず、母の柔らかい抑圧のなかから自立しようとしない、できない息子たち、そのふがいない息子たちのことです。

與那覇 まさにおっしゃるポイントを、私が教えていた大学のゼミ生が直感的に見抜いて、『成熟と喪失』を読んできたので驚いたことがあります。平成っ子の世代ですから、同書に出る固有名詞として通じるのは、ぎりぎり遠藤周作くらいなのに。

 2009年頃にその体験をして、初めて加藤典洋さんの新たな展開に得心がいきました。彼は上野さんとは違う仕方で吉本隆明を受け継ぎ、「ふつうの人の場所」から考えればいいんだ、と言い始めますよね。戦後なんて知らない、実感ないよという世代が「ふつう」になるのなら、彼らに寄り添って、同じ地点から考えると。97年の『敗戦後論』では「戦後史上のねじれを自覚せよ」と強調した加藤さんが、十年の時を経て07年にそう書いたのは、いま多数派を占める「歴史なき他者」を予感した助走でもあったと感じます。

上野 あなたが「他者が大事だ」って言っていることはわかります。でもその他者は一般的な他者ではありません。理解不可能なモンスターとしてあなたの前にいることを突きつけるのが他者で、それがリブだったしフェミニズムだったと思います。

富岡多恵子(左) 小島信夫(右)

 その女の怪物性をきちんと描いたのが小島信夫であり、それを評価したのが江藤だった。加藤さんは『アメリカの影』で、富岡多恵子の『波うつ土地』を取り上げて、「女が母性の崩壊に手を貸した」と論じましたね。そうやって私的な世界の変化が、公的な世界の変貌とつながっているということを、論じておられる。そこが彼らの偉いところだと私は思っています。「フェミニスト批評」というなら、その部分は引き継いでほしいですね。

與那覇 重い宿題です。どうにも、歴史学由来のパブリック偏重が抜けなくて、共同幻想に向かってしまう。