「体験格差を埋めて貧困の連鎖を止めよう」
この善意の“正義”の危うさを指摘するのが『子どもの体験 学びと格差』(文春新書)を上梓した教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏だ。
おおたとしまさ氏と「小学生の放課後の過ごし方調査2025」を発表して話題を呼んだ「放課後NPOアフタースクール」代表の平岩国泰氏が、子どもにかかわる大人たちが陥りがちな罠を語る。
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「負の連鎖から自力で抜け出せ」はグロテスク
おおた 平岩さんたちが「小学生の放課後の過ごし方調査2025」を発表したときに、「低所得」というワードを見出しに付けたら反応が段違いに大きくなったと、広報の方から聞きました。「子どもはもっと遊びたがっている」というメッセージを表に出すよりも、「低所得」「貧困」「格差」みたいなネガティブワードを出したほうが注目が集まる大衆心理ってなんなんでしょうか?
平岩 すごく悩ましいですよね。特にメディアの反応がぜんぜん違いました。友達ともっと遊びたいのに遊べてないっていうのは所得に関係なく、子どもたち全体の声だということをいちばん伝えたいのですが、格差や貧困というところでメッセージが止まってしまいます。
おおた すごくうがった見方をすると、閉塞感や不安が高まっているこの社会において、表向きは「格差を埋めなきゃいけない」と言いながら、心のどこかでは「ああ、自分はまだ大丈夫」ってことを確認する安心材料として消費しているんじゃないかって、最近疑問を感じています。やりたいことができない子どもがいるなら支援しようというのはごく自然なひとの心の働きですよね。それなのに、「格差を埋めるため」と言ってしまうと、子どもたちを序列化することになるし、やっぱりこの世は競争社会で、能力主義で、子どものときに体験が少ないと負け組になってしまうんだというマインドセットを社会で共有することになってしまう。困っている子どもの存在に社会の目を向ける効果以上に、社会全体に与える負のインパクトのほうが大きいんじゃないかという気がしています。
平岩 うーん。
おおた それに「体験格差を埋めて貧困の連鎖を止める」ってロジックは、正義っぽく見えて実は「習い事などの機会を提供してあげるから、それで非認知能力を獲得して、将来年収300万円未満で暮らす大人にならないように、負の連鎖から自力で抜け出しなさいね」と子どもに求めていることになりますよね。それって能力主義を内面化したものすごくグロテスクな社会だと私は思うのですが、そうは思われませんか?
平岩 ……。
おおた 「貧困の連鎖を食い止めるために体験格差を埋める!」ってやってると、いつまでたっても社会は変わりません。どういうことかっていうと、それぞれのひとがそれぞれの体験を通して学んだことを活かしながらほどほどにまじめに生きていれば誰でも子どもに習い事の一つくらいやらせてあげられる収入が得られる社会にしていかなきゃいけないという方向に議論が進んでくれないということです。そういう社会になれば、教育格差や体験格差があっても、さほど問題にならないはずですよね。家庭の事情でやりたいことができない子どもには社会として支援すべきだと私も思います。でもそれは、格差を埋めるためではない。