1964年(183分)/東映/3080円(税込)

 以前、佐藤浩市にインタビューをさせていただいた際、「父・三國連太郎が演じてきた中で、今の自分が演じてみたい役柄」という話題になった。その際に佐藤が挙げたのは『復讐するは我にあり』だった。一方、「自分にはできない」と述べた役柄がある。

 それが、今回取り上げる『飢餓海峡』の犬飼多吉だ。

 一九四七年、青函連絡船が猛烈な台風を受けて転覆、多くの死者が出る。だがその中に、乗船名簿に名前のない二人の死体も紛れ込んでいた。いずれにも他殺の痕跡が。やがて、その二人は事故の前日に岩内で起きた強盗放火事件の犯人と判明。強盗は三人組と目されていたため、残り一人の行方を追って、函館署の弓坂刑事(伴淳三郎)は津軽海峡を渡り下北半島へ向かう。

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 この三人目の男こそ、三國の演じる犬飼だった。

 物語の序盤は下北半島にたどり着いた犬飼の足跡が描かれるのだが、三國は早くも強烈なインパクトを残している。

 それは列車の場面。同じ車両では、娼婦の八重(左幸子)が大きな握り飯を頬張っていた。それを羨ましそうに見つめる眼差し。そして、八重から握り飯を分け与えられた際に、むさぼるように食べる様。そこに映る三國の姿は、タイトルの通り「飢餓」そのものを体現していたのだ。

 登場時から犬飼は絶えず何か食べ物を求め続けている。今この時だけでなく、長い年月を飢えの中で過ごしてきたのだろう――。そんな背景すら思わせるだけの圧倒的な説得力が、握り飯をむさぼる三國の様から伝わってきた。

 三國が表現した「飢餓」は、もう一つある。それは、大湊で八重と交わる場面。雷に怯える犬飼を八重は抱きとめる。そして、二人はそのまま激しい情交を結んだ。その様は、娼婦と客という関係性を遥かに超えた尊いものとして映し出され、犬飼が飢えていたのは食べ物だけでなく、人の優しさや温もりに対してもそうだったのだと思い知らされる。

 佐藤浩市は、三國自身が犬飼と同じく戦中から戦後にかけての貧しい時代を生き抜いてきたからこそ、こうした表現を可能にしたのだと考えていた。そのため、豊かな時代に育ってきた自分にはできない役柄と捉えたのだ。

 最終的に犬飼は名士に成り上がるも、八重との関係が仇となり、警察に追いつめられていく。「あがいてもあがいても、やることなすことみんなダメになってしまう私の人生に、二度とこんな大金は転がりこんできますまい」と嘆き、留置場で激しく慟哭する犬飼の姿からは、極貧の中でどうにもならなかった絶望が激しく突き刺さってくる。一世一代の名演技だ。