「僕は、殺し合いに参加したくなかった。国家のためには、死にたくなかった。だから、気を失うまで容赦なく殴られました」

 戦時中の日本で、徴兵された若かりし頃の三國連太郎さん(2013年没、享年90)。兵士として戦争に参加することが嫌で、上官に気絶するまで殴られたことも…。戦地にいた約2年の経験が、三國さんの人生に与えた影響とは? 三國さんと30年来の付き合いで、最晩年まで取材を続けたノンフィクション作家の宇都宮直子氏の『三國連太郎、彷徨う魂へ』(文春文庫)より一部抜粋してお届けする。(全2回の1回目/後編を読む)

三國さんにとって、戦争とは何だったのか? ©文藝春秋

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「『ビルマの竪琴』はメロドラマですよ」

 彼は昼間、「ビルマの竪琴(一九五六年、市川崑監督作品)」の話をしていた。

「あれ、多摩川の奥で撮ったんです。あとでビルマロケの分も加えられてますが。僕は合唱指導をする隊長の役でした。

 多摩川で歌ったんですよ、『荒城の月』。僕がこんなふうに棒を振りながら」

 三國は「荒城の月」を、伸びのある声でワンフレーズ歌い、「水島—」と主役の上等兵の名を呼び、北林谷栄の演じた現地婦人の声色を真似た。

 ヘイタイサンタチ、コニチワ。コレ、オボウサマノ、インコ。アンタラ、ニホン、カエルンカ。

「ずいぶん甘い作品だったですね、『ビルマの竪琴』は。完全なメロドラマですよ。全然、戦争を描いていない。

 僕にも戦争体験がありますが、戦地に展望を持った話なんかありません。いつ帰れるなんて話はしたことも聞いたこともない。

 よくしていたのは猥談です。それのほかに、慰めがなかった。さっきまで猥談をしていた兵隊が『突撃!』の一言で、気がつけば死んでいる。そんな世界ですから、戦争なんて。

 前線は、けっこう衝撃的でした。感覚が麻痺するのでしょうか。遺体が運ばれてきても、涙は出なかった。内地に送るため、骸から髪を切り取ったりはしましたけど、それだけ。

 遺体だって、野っ原に放っておくしかなかった。もたもたしていると、こっちまでやられてしまいますからね。

 死に鈍感になった分、恐怖には極端に敏感になりました。臭いや音、気配で、敵がどこにいるのかがわかるんです。近いとか遠いとか。数人かたくさんか。そのくらいの判断力、冷静さがないと生き延びられない。みんなが死ぬ。

 実体験から言えば、『ビルマの竪琴』は、センチメンタルです。内容がものすごく感傷的でしょ。

 実際はもっとドライですよ。亡くなった連中に対する思いよりも、生きて帰れる喜びのほうが断然強い。万歳、乾杯って思い。それが現実だった。

 戦地にいた約二年、僕はずっと戦争とはいったい何なのだろうと考えていました。そう思わざるを得なかった。

 誰が得するのかわかりませんが、いちばん損をするのは、撃たれて、死んでゆく兵隊たちです。

 僕は別に左翼でも何でもないですけど、意味なく弾に当たるなんて、真っ平でした。ほんとうに馬鹿らしいと思いました。

 あれはなんのための犠牲だったのか。僕は今でも、ときどき考えます」