「フェミニズム」という言葉が当たり前のように使われるようになった昨今。1990年代に、フェミニストとして『笑っていいとも!』や『ビートたけしのTVタックル』に出演した田嶋陽子さん(84)が受けた逆風は、現在とは比べものにならないほど酷いものでした。
幼少期には母の苛烈な教育に苦しみ、それでも「母に愛されたい」と願い続けた彼女が、46歳で母と和解するまでにはどんな道のりがあったのか。田嶋さんの著書『わたしリセット』を一部抜粋して紹介します。(全3回の1回目/続きを読む)
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戦時中に経験した“屈辱的”な居候生活
私のいまの生き方は母との葛藤から生まれたと言っても過言ではありません。母は世間、すなわち男社会の代弁者でした。母はよく「そんなことをすると世間様に笑われるよ」などと、「世間」を出して私を牽制しました。
そんな母に対して自己主張できるようになり、ようやく解放されたのが46歳のとき。それ以来、倍の92歳まで生きると決めています。偶然にも、その母が亡くなったのが92歳でした。今も私の部屋には母の写真が飾ってあります。
1941年に岡山で生まれた私は、父の仕事の都合で半年後に満州へ連れていかれました。その後、朝鮮に転勤になりましたが、父はそこで召集され、母と私は日本に引き揚げて親戚の家を転々とする居候生活がはじまりました。
母は手に職がなく、食糧難の時代ですから、どこに行っても人に食べ物をねだらなければ生きていけません。それがどれほど屈辱的なことだったか。
父の実家に居候していたとき、みんなのお膳には魚の切り身があるのに、母と私にだけないことがありました。私は子どもだから「おかあちゃん、あたしもおさかな食べたい」とねだると、母は私の頬をピシャッと平手打ちして、「黙って食べなさい」と怒りました。戦争中はそんなことの繰り返しでしたね。
母は手に職をつけたくても、幼い私を置いていけないので、勉強に行けなかったみたいです。母はそのことをとても悔しがって、何度もその話を私に聞かせてくれました。疎開体験を語るとき、いつも嗚咽していましたね。母の話を聞くうちに、「自分の食い扶持は何がなんでも自分で稼ぐ」という思いが、私のなかで自然に芽生えていきました。
一度は父の戦死通知が届きましたが、終戦後しばらくして、父が南方の戦地から奇跡的に帰ってきました。私は父の顔をすっかり忘れていましたから、「変なおじちゃんが来た」と叫んだそうです。ちょうど母に再婚話が持ち上がっていて、母はすごく嫌がっていましたから救われました。